2018年06月15日

報告 再び母校での公演

皆様こんにちは。音心は先日、静岡市にある静岡県立静岡視覚特別支援学校(旧静岡盲学校)にお邪魔して参りました。

静岡視覚は遠い昔えんじろうが小1からの寮生活をしていた母校です。泣いたり笑ったりと、たくさんの思い出の染み込んでいるこの場所で、自分が今仕事としていることをさせてもらう。本当に不思議なご縁のようなものを感じます。

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やや気になっていたお天気も問題なく、早朝に出発して道が混む前に走り抜けることができました。

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途中できれいに咲いている花を見つけました。
数ヶ月前から準備に取り掛かり、その成果がどれだけ通じるものなのか試される時。そんな感覚での移動。今でもやっぱり苦手なおしゃべりの部分を中心に、行きの車の中でイメージトレーニングを繰り返していました。

しっかりお時間を頂いていたので、抜かりなく準備をすることができました。
この学校には幼稚部・小学部・中学部・そして専攻科と幅広い年齢の児童生徒の方々がいらっしゃいます。更にこの日は地域の学校やこども園などの方々もおられ、体育館が熱気にあふれていました。

先生からご紹介いただき、いよいよ本番スタートです。
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posted by えんじろう at 00:42| Comment(0) | LIVE Report | 更新情報をチェックする

2018年06月11日

竜宮城で貰ったオカリナ

今朝、不思議な夢を見ました。

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それは誰かはわからないのですが、音心がお世話になっている人のお宅にりょうこさんとお邪魔したときのこと。
何かの帰りに立ち寄ったのでちょっと疲れが出ていて、夕方にお邪魔してしばらくしたら睡魔に襲われて寝かかっていました。
そこに家のご主人が外出から戻ってきました。

気がつくと不思議な和音を従えて浜辺の歌の旋律が聴こえています。
それはご主人が吹いている音で、僕は興味津々で横にくっついて話を聞こうとしていました。

その人は「これは貰い物で、唯一完成したオカリナ。」
そして「今出回っているオカリナは、本当は未完成なんだ。」
というのです。出回っているというのが単管のことを指しているのなら、僕は猛反対します。でも言っていることの真意がつかめていないこと、このご主人は相当な大作家さんであるらしいこと、そして声のトーンがとても優しいのとで、黙って聴いていました。
すると「いや、これはオカリナではないのかもしれないんだけどね」
とさらに意味深なことを発言。

そしてさらに翌朝、僕らは帰ろうと荷物をまとめて去り際に、ちょうどご主人が起きてきて登場。
僕はまた隣に行って昨夜の続きの話を聞こうとしました。

もういちど吹いていただくことはできますかと尋ねると、
「いやあもうだめだよ」と、
あっさり却下。
何も聴くことができずオタオタしているのを見てなのか、
「これはねえ、竜宮城で貰ってきたんだよ」と、
真面目て教えてくれました。いくら真面目に言われても、どう捉えてよいのやら・・・。
結局それで夢はおしまい。

丸くて吹き口だけが飛び出たこの笛。詳しくは続きをご覧下さい。
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ラベル: オカリナ
posted by えんじろう at 09:03| Comment(0) | Diary | 更新情報をチェックする

2018年06月09日

平和への感謝

退屈という牢獄に閉じこめられているように錯覚している者達よ。
それがどれだけ幸せなことなのか、よく考え直してほしい。

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朝自分の意志で目覚めることができること。そのとき体が自由に動かせることに感謝しよう。
「おはよう」と言う言葉を、何も意味を含めずに言える事に、感謝しよう。
鳥の声が聞こえることに、感謝しよう。
何にも怯えることなく、安心してご飯をいただけることに感謝しよう。
外を歩いても、ゆきたい方向にどこまでも歩いてゆけることに感謝しよう。
自分の話を聞いてくれる、ゆとりある世の中であることに感謝しよう。
外に出ても捕まったりしないことに、感謝しよう。

敵だと狙われることもなく、実験動物のように痛く怖い思いをさせられることもなく、伝えたいことも伝えることができる。この状況は、過去の人の体験と願いと努力による、奇跡の上にしか成り立たないことを考えよう。
そうだ、この「平和」という現象は、努力と願いがなければ成り立たないし、続かないのだ。この「平和」の下地にあることを、決して忘れてはいけない。例え知らなくても、時々はその「平和」を求める下地のことを想像しておこう。

もしも思ったことを口にするだけで捕まり、拷問を受けるような世の中だったなら。
もしも苦痛と恐怖に耐えることしか、生きながらえる方法がないような世の中だったなら。
もしもその恐怖と苦痛を、他人に与えることでしか生き残れないようなシステムだったなら。

全てを見たこともないものに捧げ、ありがたがって、いつの間にやら「己」も「平和」も差し出してしまっている。
その意味も分からなくなってしまっている。
そんな風にはなりたくない。

「平和」は恐怖と苦痛の中から願われて生まれる言葉。間違っても「平和」を願わなければならない世の中にはなってほしくない。
だからちゃんと今あるこの「平和」を意識して確認し合おう。それは特別なことだって、本来の感覚に改めよう。
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posted by えんじろう at 08:30| Comment(0) | Real Time | 更新情報をチェックする

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